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『InterCommunication』2008年春号 特集:音楽/メディア ポストCD時代のMAKING MUSIC

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『InterCommunication』2008年春号 特集:音楽/メディア ポストCD時代のMAKING MUSIC

『InterCommunication』2008年春号(NTT出版)

10年ぶりの音楽特集らしい。渋谷慶一郎、佐々木敦、津田大介、小野島大、増田聡など豪華な面々が寄稿している。要チェック。

とりあえず、渋谷+佐々木対談を読んだ。内容は、音楽が隘路に嵌っていると考えるのは早計ではないか、その意味で、音楽内在的なアプローチの可能性を追及している渋谷の活動は重要である、という佐々木の認識のもと、渋谷の活動を追いかけるかたちで、音響以降の音楽のありかたを考えるもの。

はー、なるほど、そういうことなのか!佐々木さん頭いいなあ!ジャーゴンをあまり使わない渋谷さんもさすが鋭いなあ!と感動しながら読んでました、が、素人ながらもいろいろ思うところはある。

2点ほど。

1点目。「PerfumeやCapsuleみたいな存在が希望だと、常々僕は言ってるわけ(笑)。彼(女)らはメロディがどうとか歌詞がいいとか悪いとかいうレベルでやってない。というか音圧と高域で脳にどうアディクトさせるかということだけにフォーカスして作っている。もちろんこれはポップスの場合、全般的な傾向だけど、例えば彼らが影響を受けていると思われるフレンチ・エレクトロなんかと比べても徹底されているのは波形を見れば明らかで、これはもはや音楽として適正な処理とかいう範疇じゃない。」(p.28[渋谷])

希望というより、最期の望みというべきではないのか。これって、クラブカルチャーが散々がんばってきて(パイ獲得の意味で)失敗したことですよね。

ジャズで置きなおすと、とあるジャズ評論家(サイトが見つかりません・・・)が、ジャズをあくまで「かっこいいかどうか」で捉えていた系譜として、電化マイルス→菊地雅章→菊地成孔が考えられるとして、Date Course Pentagon Royal Gardenも評価できると思い直した、と書いていたが、この流れも、DCPRG解散で一応収束してしまいかねないわけで、事態としてはわりと深刻ではないか。もちろん、クラブジャズブームの趨勢によるところも大きいでしょうが。

2点目。この対談は、渋谷の音楽を、音があるのか/ないのか、デジタルか/アナログかといった様々な二項対立の一方にはまらない「第三項音楽」だとしている。これってもろ現代思想の考え方で、ほとんど「脱構築」の言い換えだとおもわれますけど、1980年代から(音楽批評の)言説空間は停滞しているってことの証左にすら見えてくる。いまだに第三項とか言っているのを見ると、失ったものが大きすぎる気がしてならない。いや、好きなんですけどね。ポスト第三項的なアプローチはないんだろうか。

もちろん、なるほどと思ったところもある。

茂木健一郎批判は納得。科学的にここまで解明されたけど、その先にはクオリアの壁があって・・・という議論は結局、人類礼賛の神秘主義ではないかというもの。神秘主義って危ういと思う。なぜ、だれも怖がらないのか。内田樹の身体論(の危うさ)もこれと近いと思う。

「文化系女子」から一歩・・・どころか千歩ぐらい踏み出した。

『ユリイカ―腐女子マンガ大系』2007年6月増刊号(青土社)

『動物化するポストモダン』の続編がついに刊行です。

『ゲーム的リアリズムの誕生―動物化するポストモダン2』(東浩紀/講談社現代新書)

待ってました!!!ハルヒ、ひぐらし、舞城王太郎も押さえてます。

この時期になぜ舞城?と思わなくもないけど、まぁ5年半のブランクがあるので、ね。

なぜか、西部邁の新書(『核武装論』)と同時刊行。

しかし、待ってました、とか言っておきながら、わたくし、『動ポモ1』読んでないんですよね。

『網状言論』やらでの小話で読んだ気になってた。

大雑把にいえば、大きな物語が喪失して以降、私たちは動物化の一途をたどっている、良くも悪くも今後はそういう世界になっていくでしょう、というのが大意でしょ?(大雑把すぎ)

・・・発売までに読んでおこう。。(勉強は?

山下洋輔、菊池成孔、大友良英、大谷能生、後藤雅洋などなどなどなど。

ISBN978-4-7917-0158-2.jpg

『ユリイカ―特集:戦後日本のジャズ文化』2007年2月号(青土社)

そしてマイク・モラスキーは、当然の巻頭インタビューということになる。

併せて、読まないとなあ。

よもや嘲笑の的かとさえ危惧されるJジャズも昔は熱かったっていうしなあ。

出ていました。

『無人島レコード2』レコード・コレクターズ2007年1月号増刊(ミュージック・マガジン社)

一瞥しただけなのでまた改めて確認するけど、和田唱が案の定ビートルズを挙げていたことと、内田樹の近影が思いのほか学者然(ないしNHKアナウンサー然)としていたのは、非常に記憶に残っている。

しょこたんは松田聖子で、冨田恵一はマイケル・ブレッカー関連(追悼企画でなく本当に好きらしい)だったような。

ということで、自分なら「ベストディスク」に何を挙げるだろう。

消去法でいくと、やはり、フラナガンと迷って、メルドー(『LARGO』)ということになろうか。

ただ、無人島となると「何度聴いても飽きない」というのが一つの重要な要素になるわけで、そうすると、メルドーではないような気もする。

つまり、度重なるリスニングに耐え得るには、スルメ力がなくてはならないのだ。

極度にアゲアゲだと疲れてしばらくいいやとなってしまうし、極度にサゲサゲでも鬱だ死のうとなってしまうからである(そもそも「無人」なのだから、思索の海にかなりダイブしやすい環境である)。

何度聴いてもいいかも、とリスナーの欲求をサスペンドさせつつ、8割台の合格点を常にたたき出すようなサウンドが必要である。無人島レコードには、この絶妙のバランスが必要である。

ということで、考えてみると・・・

マイルスの『アガルタ』か『Bitches Brew』あたりに落ち着いてしまいそう。。

・・・普通すぎる。

ハービーの『処女航海』、チックの『Now He Sings, Now He Sobs』『Return To Forever』もあるけど、

うーん、やっぱりマイルスになるだろうなあ。

ご存知の方も多いであろう、紀伊国屋書店のPR誌。

1号は紀伊国屋書店のウェブで読むことができる。こちら

石田千、斉藤美奈子、都築響一といった面々が寄稿している。take freeなのにがんばるね。

で、今回は上野千鶴子も寄せている(「皇室のミソジニー」)。

結論は、天皇主義者は天皇の人権を蹂躙してるんじゃないのか、というありきたりのものだったが、皇室の構造分析は面白かった。

課題終わんねー。

『大航海』No.61―特集:ケインズ/ハイエク(新書館)

寄稿しているのは、佐伯啓思、松原隆一郎、仲正昌樹、間宮陽介、橋本努、加えて岩井克人の対談と、まったくよく集めたなぁという面子。

とりあえず佐伯論文だけ読んだが、ハイエクとケインズの共通項を指摘しながら、自由は揺らいでるというかねてからの主張へ結び付けていくもの。『自由とは何か』(講談社現代新書)とあまり変わらないという印象。結論部分では「公民的自由」とか言ってしまうわけで、その辺はスルーするとして、前半はハイエクとケインズの異同が整理されていて復習になった。

ということでBook of the Yearです。

2005-2006はこちら

2004-2005はこちら

□今年読んだおすすめできる本

1. 『どうせ死んでしまう・・・私は哲学病』(中島義道/角川書店)

私たちは死すべき存在であるし、死との関係性の中でしか「生きる意味」などといわれるものを模索する必要性も見出せないということは、かなり根源的であると信じている。ア・プリオリに据え置かれた人生の意味などというものはないのである。だからこそ、生きる意味を問うことそれ自体に有意味性が求められることになるのである。書評はこちら



加速する90年代再評価の波。

『STUDIO VOICE』2006年12月号(INFASパブリケーションズ)

冒頭の佐々木(敦)さんの90年代論(p.20)は目から鱗。冷戦の終わりと、バブルの崩壊と、世紀の終わりの狭間で揺れ動いたのが90年代だという。勝手に「三すくみの終焉」論と呼ぶことにします。

00年代はいつ始まったかについては、三田(格)さんと北沢(夏音)さんが95年起源説を前提に話をしていた(よく読んだら、結局、三田さんは世紀は跨がないと見ているようにも)。

僕もそこに萌芽を求めるべきだと思う。オウムやエヴァがあったから90年代前半と後半とが切断されるというのはそれはそれであるとしても、重要なことは世紀を跨いでもなお90年代の残りみたいなものが伏在していたということだと思うんだけど。

当時Xジャンプしてたようなやつに言われたくないと思うけど・・・。いやしてないけど。

まーとにかくすごいので、とりあえず手にとって、90年代カルチャーマップ(p.72)を見ながら、気持ち悪い笑みを浮かべましょう。

そもそも大塚さんのフリッパーズ・ギター概論(p.30)を読みたかっただけなんだけど、まったく論じられてなかった!メタゲームだなあ。これぞ、90年代。


ちなみに90年代をフューチャーし続けている雑誌『MARQUEE』はといえば、コーネリアスとカヒミカリィの新譜特集。その徹底ぶりに感動。

永山マキ(モダーン今夜)のソロ情報もあるので、気になっている人はぜひ。

『MARQUEE』vol.57(マーキー・インコーポレイティド/星雲社)

ユーザーにはよくわからないエラーが出ていましたが、復旧したようです。takuさんお疲れさまです。

創刊記念ということで読んでみた。井上達夫の本のタイトルをパロってるんでしょうかね。

『愛国の作法』(姜尚中/朝日新書)

阪本昌成「第4の権力―マスメディアの位置と機能」ジュリスト1311号72頁(2006年)。

憲法学者にしてリバタリアンという随分難しい立ち位置で頑張っておられる阪本先生に興味があったので読んでみた。これが非常に面白い。

「マスメディアの権力」論批判が本稿の目的だそうである。

軟派なタイトルゆえにためらっていたが、ついに買ってしまった。
沖野修也(Kyoto Jazz Massive)なので、本質的に問題があるわけではない。

『DJ選曲術―何を考えながらDJは曲を選び、そしてつないでいるのか?』(沖野修也/リットー・ミュージック)

大学図書館に入ったので、上野論文(序章、終章)だけ読みました。

『脱アイデンティティ』(上野千鶴子編/勁草書房)

読了していないけれど、長々と書くつもりもないので。

『網状言論F改―ポストモダン・オタク・セクシュアリティ』(東浩紀編著、永山薫・斎藤環・伊藤剛・竹熊健太郎・小谷真里著/青土社)

何のために強調するのかという気もするが、青土社です。

『STUDIO VOICE』2006年1月号(INFASパブリケーションズ)

「World / Crossover 再興ワールド・ミュージック」「The Immigrant Pops ハイブリッド・ポップ」特集。

思考経済を回復したいので、そのためにも書き続けます。

あと、僕の日記の文章をぐぐって、再びここに行き着いた方がいますが、哲学者の箴言でも何でもありませんので・・・

『ユリイカ』2006年1月号(青土社)

浦沢直樹インタビューを読む。
マンガを描いてマンガを評論しているとの紹介に、僕の読後感を言語化してくれたような気がした。

マンガはほとんど読まないがあえてマンガ好きの方々の反応をおそれずに書くと、近年の浦沢作品の凄さは、時間の使い方だと思う。『MONSTER』とかパッチワークでしょう。ミステリーというジャンルを選んだ意味もそこにあるのではないか。無時間的なマンガ(あずまきよひこも本誌のインタビューで「時間が円環する」マンガは描きたくない、と言っている)も日常的なマンガもありふれているが、時間軸をいじるマンガはあんまりない(と思う、あったらオススメ紹介してください)。

時間軸とは無関係に、パッチワーク的に配置するということは、作品を通底するストーリーの外部に、メッセージ(あるいはそう呼ぶならイデオロギー)があるということである。複層的な情報を提示して、読み手にストーリーを構成させるという手法には、<外的>視点、つまりテクストを読み解く主体としての読者が常に意識されている。「マンガ全体をしょいこむ」(インタビューにおける宮本大人発言)と評される彼の姿勢は、こうした技巧的な側面からも、従来のマンガの表現方法に対するアンチテーゼとして読み取ることができるのではないか。

続いて、夏目房之介・宮本大人・伊藤剛の鼎談。

伊藤剛のもたらすマンガ論の新しい地平について、「キャラ/キャラクター」の差異化は重要だとしても、「フレームの不確定性」はだいぶ前から論じられていたような気がするがそれとは違うのだろうか。

誰が言っていたことかわからないし、そもそも僕がマンガ論を読んだ記憶がないわけだが、おぼろげながら思考を辿ると、フレームの解除は向こう側(表現媒体としてのマンガ)の世界を、私たちの生活空間に持ち込むことで、読み手の没入を喚起するためだ、とかそういう議論。少女マンガに多いそうだが、その理由も、ジャンルとして、キャラクターとの同一化の要請が顕著だからだとか。

積読本を消化すべく軽めのものから読み始めました。
bounce.comでも途中から読んではいたんですが。

『CDは株券ではない』(菊池成孔/ぴあ)

近田さんとの対談が面白いです。
その部分だけでも読む価値あり。

予想も「表面的」には右往左往する語り口で面白いのですが、雑感としては、まえがきと対談を読めば、だいたいは目次から演繹できます。

特に挙げるとすれば、ORANGE RANGE評が秀逸。メタレベルの苦笑いとでもいうか。
つんく評は予想通りの印象。「おじさん、残念です」という気持ちが伝わってくる。

それはそうと、定期試験まで1ヶ月切っています。
会社法のレポートも当然終わっていない。

課題が終わらないので息抜きに。

2004-2005はこちら

□昨年読んだおすすめできる本

1. 『東京大学のアルバート・アイラー―東大ジャズ講義録・歴史編』(菊地 成孔, 大谷 能生/メディア総合研究所)

音楽の技術論的なパラダイムの転換から、ジャズ史を再構成する試み。十二平均律→バークリー・メソッド→MIDIといった変遷に通底する「記号化」を読み取る。従来のジャズ史は、政治性・思想性が前面に押し出されたがために、それに影響を受けるという意味で「技術依存的」な(側面をもたざるをえない)人間像を描くことに失敗していたと思う。MIDIの台頭とともに育った私たちの世代にとっては、これといって新しい視点があるわけではないが、こういう問題意識を前提にジャズを見ていかなくてはならない、ということを指摘した点は重要だろう。僕の書評はこちら

大学の生協にもビレバンにもなかったので栄まで買いに行きましたよ。
ついでに欲しかった本も大量購入。それについてはまた後ほど。

『ノーディスク・ミュジックガイド』(No Disc Music Guides/ライブドアパブリッシング)

本書については、リンク先を見ていただければ、なかなかいい面子を揃えていることが看て取れます。
したがって、コンピとしてというよりも、セレクターの「音楽」像を楽しんだら面白いかと。

iTMSで聴けるという限定はあるものの、音楽全体についてはそんなにアンテナ張っていない僕でも、業界の動向がわかる。

ぱっと見て気付くものでも・・・

現代思想の12月号が1990年代論を特集しています。

『現代思想』2005年12月号(青土社)

酒井隆史の「鋳造と転調」が、難しくて文意が取れないところも多かったけど、非常におもしろかった。

90年代を代表するテレビドラマと言ってよい『ケイゾク』(1999、TBS)を例に、都市の空間構造とそこに生きる人間の身体性を論じている。

酒井によれば、『ケイゾク』には各放送回ごとに設定される「空間1」と、各回を通底しつつ後半部で前者に代替的に表面化してくる「空間2」とがあり、この二層の関係性において、中谷美紀と渡部篤郎が演じる両主人公の差異が描き出されているという。

読了しました。

『波状言論S改―社会学・メタゲーム・自由』(東浩紀 ・北田暁大・宮台真司・大澤真幸・鈴木謙介著/青土社)

社会学畑の方は当然だろうとおっしゃるでしょうが、はっきりいって面白いです。おすすめ。

僕の関心からいえば、3章の「再び『自由を考える』」は、賛否はともかく、わくわくする議論だった。東先生のノージック的なリバタリアニズムの理解は、監視社会を容認するものとして機能するという帰結はどうかと思うが、おおむね的を射ていると思う。つまり、共同体を構成する自由、原理主義を構成する自由などの多様な選択の自由を認めるためのフレームワークとしてメタユートピアというインフラがあるのだという理解。したがって、そこにはインフラを選択する「自由」はない。その後、だから、テロに対する寛容は貫けないと繋がっていく。

たしかに、リバタリアニズムがインフラの枠内での移動の自由を前提視することは確かだろう。

東先生の例示を援用すれば、僕らはWindows XPというOSの上で、いろんなアプリーケーションを選択できるけど、そこにはアプリケーションが相互に干渉しあわない、つまり何かのソフトを入れたら他のソフトがハングしたりすることがないということが想定されている、ということらしい。

楽しみにしていました。

『Intercommunication』2005年冬号(NTT出版)

テーマは「情報社会の変貌」。
最近、こういう社会学系(論客がね)の雑誌ばかり読んでいる。

蓮實重彦も寄せてるが、読んだことがない。不勉強だ。

まぁ、何よりもまず、ジュリスト読めよっていう話だね。

そのうち追記・・・できるかなぁ。

併読しまくってるので、やっと半分程読んだというところだが、11章「涙の訴訟社会―裁判の話」があまりにひどいので書くことにした。他にもいいたいことはあるが、この際置いておく。


『街場のアメリカ論』(内田樹/NTT出版)

いいたいことは大きく二つあって、本書は比較文化論的な考察と見てよいかということと、その場合のヘッジングの問題である。ちょっと長いです。長いし穿ってる文章は読みたくないかたはこちらへ。

やっと手に入った。

aste_62.jpg

(『アステイオン』62号, 2005)
http://www.suntory.co.jp/sfnd/aste/

憲法の妥当性についての話はうなずいてしまった。

僕がずっと疑問に思っていた、なぜ誰も、法の「政治」化について疑義を呈さないのか、ということに対する、(裏側からの)一つの解答になっていると思う。

政治的言説でしか法を扱おうとしない論壇も、少しは考えたらいいと思う。民主主義的なパースペクティブしか持たない議論も、同様ということになるだろう。つまり、民主主義で行くしかないといった公共圏についての議論とか、あるいは民主的決定自体が可謬性を抱えているのだという監視社会論のような主張とか。

読了したので感想を。

『東京大学のアルバート・アイラー―東大ジャズ講義録・歴史編』(菊地 成孔, 大谷 能生/メディア総合研究所)

公式サイトがあった。こちら
過去ログはこちら(本年度の前期の講義のログもあります)。

結論からいうと、ジャズを知らない人に読んでほしい。思ったより歴史歴史していないからだ。それは、著者がいうように、従来の歴史観(本文で「捏造された歴史観」と揶揄されている)を捉え返す試みだからだといえる。

『無限論の教室』(野矢茂樹/講談社現代新書)、読了。

全体としては、集合論を素材にした「無限」についてのお話。数学の素養がない僕にはちょっと辛いというか、「だから何?」という感が無きにしも非ず。具体的には、実無限(無限は実在する?)と可能無限(可能性のみがあるのであって実在するのではない)の論争の過程を追ってゲーデルで落とす形になっている。

僕の関心からいうと、概念論がおもしろかった。

一点、可能無限に親和的な根源的規約主義(と思われる立場)を取るとその規約の妥当性は公理系内の準則(?)で決まるということなのか。とすると、普遍化可能性との兼ね合いはどうなるのか。「普遍化された法体系」というそれもまた一つの公理系になるということ?直観的に感じる利点は国や地域によって法体系が違っても問題ないといえることだと思うのだが、勘違いをしていなければ、欠点も目立つように思う。

ちなみにこの本は小説風なのですが、登場人物の「タカムラさん」おもしろすぎ。かわいい。

□今年読んだおすすめできる本

今年読んで興味深かった本をあげてみます。だいぶ忘れているものもあるので、そのあたりは紹介に終始してますが、ご愛嬌ということで・・・

morimura_libertarianism.jpg

『自由はどこまで可能か―リバタリアニズム入門』(森村進/講談社現代新書)

「所有」とは何か、国家は何のためにあるのかといったことを考える際の一方の魅力的なアプローチ(他方は公共哲学的なそれということになろうか)を提示している。リバタリアン的な世界は実現可能かという反論がしばしばなされるが、そういった実行可能性とは別の次元、すなわち国家の専断を批難する際の有力な基盤となりうるという点では議論に値する立場であると考えている。更に言えば、原理的な捉え方の問題として「私たちがどのような秩序(order)のもとに置かれるべきか」という問いへの一つの解答を、コミュニタリアニズムが描くような世界の魅力(たとえば、景観や自然の保護、共同体の存続・維持)とは別の側面から、提示することが可能だろう。この期待は第7章(自生的秩序について)のような議論を視野にいれると、「実感として」も湧いてくるように思われる。

2004年3月28日(日) 情報の脱物質性
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春期講習がはじまっている。
昨日は代講もあって終日教えていたので、夜は熟睡だった。

ここ数日は、『デジタルを哲学する』(黒崎政男/PHP新書)を読んでいる。

「情報の脱物質性*1」を主軸にしてデジタル・テクノロジーに警鐘を与えつつも、
それをここ数年の短いタイムスパンとしてではなく、グーテンベルク・テクノロジー以来の印刷時代に比較して台頭し得る、より長期的なタイムスパンとして捉えるよう訴えている。

筆者が引用した社会学者マーク・ポスターの文章は以下のように述べる。

「これまでは商品は・・・材料の複雑な組み立てと技術とが・・・必要とされた。消費者たちは・・・製造に対して支払っていたのであって、公共図書館でただで利用できるそのなかの情報には支払わない。・・・情報はそれが出荷される<パッケージ>と分離できないものであり、このパッケージに価格票がついていたのだ」

2004年3月18日(木) 因果法則の非論理性について考える
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3日のゼミで「言語ゲーム」についての議論があったので、基礎的なことをさらっておこうと思い、『ウィトゲンシュタイン入門』(永井均/ちくま新書)を読んでいます。授業を受けたことがある人のほうが読みやすいかなというのもあって、永井先生の本にしました。「言語ゲーム」についての説明はまだ先のようなので、ちょっとした疑問をメモしておくことにします。

僕はいままで、因果関係というものほど論理的なものはない、論理的ということは因果関係が成り立っていることであると強く思っていたのですが、論理学的にいうと、「AだからB」を証明することは出来ない、すなわち、ウィトゲンシュタインの言い方に置き換えると、命題A、命題Bそれぞれの真偽は証明(?)することができるが、命題A−Bの論理関係は、それぞれの命題が言い表している世界の外に存在してしまっているため真偽を問うことができない、ということになるようです。この議論は、先の『論理トレーニング 101題』においても数行ほど指摘されていたことで疑問であったのですが、この考え方を受け容れると、様々な因果性は全て「推論」であって、必然的に「飛躍」を伴うものということになるのでしょうか。法律の議論においては、「法的因果関係」は「自然的因果関係」とは区別されることが多いです。このことも、もしかすると、法的には因果性を持つものと「推定」するというような見込みを孕んでいるということと関係するのでしょうか。そうなると、因果性にはある種の恣意性が入り込むことにならないのか。ロジカルに考えると、結局は少なからずの論理飛躍に対する主観的(それは一般意思なのかもしれないが)な因果性の付与に尽きるように思われます。

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