終了間近に駆け込んできました。綺麗にまとまっていませんが、感想を。
http://www.matsuzakaya.co.jp/museum/dechirico/
オススメサイト。わかりやすい文章を心がけるという自戒を込めて。
絵を見て感じたのは、「気持ち悪さ」だった。特に、前期(といっていいかわからないが、いわゆるメタフィジカの頃)。おそらくは、同属嫌悪だと思われる。形而上に関心が向かう理由は区別するならおそらく二つあるはずで、一つは超越的な視点を求めるという場合、もう一つは「現世」に不満足である場合、といえる。
彼の幾何学的・製図的な描き方から、真っ先によぎったのはプラトンの幾何学論だった。プラトンは哲人政治をよしとするわけだが、いかにして哲人となるかという方法論をも彼は一応提示していて、数学、特に幾何学を学んで、更にそれを教えることを通して、不惑ではないが、40才か(正確な年齢は忘れてしまいました)そこらでやっと「政治」の担い手となるとされる。
幾何学はもちろん彼のイデア論と結びついており、それに習熟することでイデア界を想起できるようになる。形而上絵画がそうした西洋思想の源流にあるイデア論的な「精緻さ」と結びついていることは、何らおかしくはないし、特にプラトンとの関係について説明があったわけではないが、西洋人にとっては当たり前すぎることだったかもしれない(根拠はない)。
ところで、超越論的な視点というのは、プラトン的にいえば「真理の獲得」である。そう解するなら積極性があるともいえるだろう。しかし、僕はむしろそうした希求によってかえって照射された「人間存在に対する諦観」に、結果として重点があたってしまっているように感じた。諦観という言葉に消極的なニュアンスだけを持たせているわけではないが、消極性は不可避である。その両義性を生きるしかないという意味である。
彼の絵には「音」がなかった。力学がなかったといってもよい。波が静止したように見える絵(「白鳥のいる神秘的な水浴場」など)が象徴的である。
そして、あまりにも無時間的だった。たしか無限の時間や回環する時間という解説があったと思うが、結局は人間にとっては無時間といっても同じことだろう。カント的にいえば認識の限界である。彼は、おそらく認識の外部を(本来的な)世界として描こうとしたのだと思うが、そう描くことでかえって、人間存在の小ささを自覚(すなわち「諦観」)してしまったように見えた。
「ふさぎ込んだ太陽と形而上的室内」という作品には、そうした彼の「諦観」があると思う。つまり、太陽や月といった天体が実在していようとも、私たちは認識すること、すなわち自己にひきつけることでしかそれを受容できないのだ。イデア性が地上に降りてきたことは(おそらく)喜びであると同時に、私たちの限界を知らしめるのである。
おそらく彼は抽象的世界に遊離したというわけではないだろう。彼の作品に自然性が垣間見えることからもそういえるし、そもそも具体的な存在者としての画家による抽象性の希求というものも、結局は、彼の現実に対する評価と結びついており、現実との差異をどう測っていくかという実践に他ならないことになると思うからである。中期になって彼が写実的な絵画に傾倒したことは、こうした実践的欲求を視野に入れていた、そこに人間性との格闘があったと解することによっても、説明がつくように思われる。









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