東浩紀の議論にほぼ乗っかって、再帰的近代である現代における自己像の変化について論じた本。
アイデンティティ概念が崩壊している、というのは、おー、また出てきたなと思って読んだ。
たしか上野千鶴子あたりが、ペルソナ(こういう言葉を使っているわけではない)を使い分けるのは、別に悪いことなんじゃなくて処世術なんだみたいなこと言ってた気がするけど、その辺との(つまりバトラーなどとの)連続面が気になる。
知性はデータベースに代置されることになって、感性は、知性とではなくデータベースとの往復で自己像を構築することになった、というのが鈴木モデルの核だ。もちろん自己像は、アイデンティファイされるのでなく、反省的にでもなく、自明なものとして「私は私だ」というかたちで構築される。
本書にも挙げられていた2ちゃんねるの「祭り」という現象も、ここから説明される。要するに、私というアイデンティティは反省され同定されるべきものだが、それは忘失されて、自明性のうえに唐突に・短期的な感性の往復運動が生じる、ということだ。
短期的と書いたのは、鈴木は自己像は躁鬱の中にあるとしていて、刹那主義的な感性の運動は長期的な鬱状態を引き起こしているとするからである。
リベラリズムとの関係でいうと、「反省的主体」の生き残りの問題になるんだろうなあ。バトラー(というかたぶんフーコーも)の議論につながるとするなら、主体は法による呼びかけによって生じて、責任の名宛人を措定するとかいう批判はどう使うんだろう。法にデータベースが取って代わることになるのか?踊らされてる側に責任が発生する、という枠組みでいいのか、とか批判するんだろうか。
再帰的近代化論については、乗れない理由があったはずなんだけど忘れてしまったため、覚書き。










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